その日は夜中から冷え込んでいて、起き抜けから咳が止まらなかった。極端に寒い日や寒暖の差が激しいときに、時たま起こる現象だった。幼い頃から喘息を患い、成長するにつれて症状は和らいでいったが、完全に持病が無くなることはないらしく、激しく咳込むことがあっては時朝が薬湯などを用意して忍耐強く看病するのだった。
 あばら骨が砕けるのではないかと思うほどの咳が続き、手馴れた様子で薬を用意したり背中を撫ぜたりする時朝の世話によって、ようやく落ち着いたのだが、かなりの体力を消耗してしまい、敷いた畳の上にぐったりと横になっていた。今の年齢になってもこのざまなのだから、きっと死ぬまでこの持病と付き合い続けるしかないのだろう。それが罰だというのならば甘んじて受け入れる、が、まだ何も知らない幼子のときに発症したのだから、罪と罰は生まれ落ちたときから定められていたのだろうかと物悲しい気持ちになる。
 しんしんと雪が降る庭の景色を眺めながら時を過ごしていると、恒例のように花梨がやってきた。いつもより来る時刻が早い。雪が積もって足もとの悪い中でも、懲りずに訪問を続けるのだから、その根気と健気さには和仁もいよいよ降参してしまう。

「和仁さん?」

 横たわる和仁を目撃した花梨が、心配そうに駆け寄ってきた。入り口にいた時朝は何も言わなかったと戸惑っている。最近、時朝は和仁と花梨の逢瀬――と呼べるほどの関係ではないのだが――を応援しているらしく、少し具合が悪いくらいでは花梨を帰すこともしなくなっていた。
 主の身体を少しは気遣えと毒づきつつ、和仁は両腕に力を入れて身を起こした。

「起きて平気?」
「大事ない。朝、少し体調が悪かっただけだ」

 それより花梨が心配だった。外を歩いてきた花梨は、鼻の先を真っ赤にしていた。緋袴を着け、重ね着をしているものの、もともと色白い顔がいっそう青白くなっている。
 横になっているとき掛けていた衣を差し出すと、花梨ははにかみ、ゆるくかぶりを振った。

「平気です。楽しかったもの、雪の道」
「相変わらず元気だな」

 半ば呆れつつ、和仁は花梨の肩に衣をかけてやった。ありがとうと微笑まれる。最近は彼女が自分に微笑みかけても気恥ずかしさのようなものは感じず、むしろ安心感を抱くようになっていた。そうされることが当然という図々しさが生まれ始めたのだろうか。もしそうならば大変な罪だが、和仁はただ純粋に彼女の微笑が好きなだけだった。優しくて、穏やかで、見ている側の心をほっとさせる温かな笑みだ。
 花梨は庭を眺めていて、そのうち和仁を振り返った。

「和仁さん。もしよければ外に出てみませんか」

 和仁は怪訝な顔をしてみせた。今朝体調が悪かったという話を聞いていなかったのだろうか。

「ここのところ、全然外に出ていないでしょう」
「私は謹慎中で軟禁状態だから外出できないのだぞ」
「外に見張りなんていなかったわ。謹慎中は本当だろうけれど、外に出ないのは、和仁さんが出たくないからでしょう」

 山登りだってみんなでしたじゃないと真顔で言われ、和仁は嘆息した。

「……人の目が気になる。それに、私は丈夫でない」

 山登りの時には、散々息切れをして花梨と時朝に文句ばかり言っていた自分である。喘息の発作が起こらなかったのが不思議なほどだ。

「人は、自分が思っているほど他人のことなんて気にしていませんよ」

 あっさりと花梨は返した。ここがまた少女の不思議なところなのだ。八葉の泉水のように人を気遣い、相手の心を先読みすることができるほど繊細な性格なくせに、時おり驚くほど強気な発言をすることがある。よい言い方をすれば芯が強いということなのかもしれないが。
 和仁は言い返せずに黙ってしまった。

「……」
「それに、じっとしているばかりじゃ余計に体力が無くなってしまうわ。少しは歩いたりしないと、ね」

 だが、今日は雪がちらついている。外出できないほどではないが、凍えるほど寒いし、雪道で足元は悪いだろうし、できれば暖かな火鉢のそばにいたい――
 胸中では色々と不満を漏らしていたが、和仁のことを気遣ってくれるからこそ、いろいろな助言をしてくれることは承知している。だから抵抗を表に出すことはできなかった。時朝ならば、さすがに今日のような雪道は危険だと止めてくれるかもしれないと期待したものの、花梨が出かける旨を伝えると彼は「いってらっしゃい」と、嫌味と感じるほどの笑顔で賛同した。ならばせめて牛車で行きたいと最後の抵抗を試みたが、雪道を牛車が行けるわけがなかろうと二人に即却下されてしまった。
 和仁を励ますという目的において、花梨と時朝は、腹の中でよく通じ合っている共犯なのだ。その経緯を探る気力は、もはや和仁にはなかった。
 外出するのは、本当に久々だった。時朝は邸に留まるとのことで、二人きりで街路を歩いている。花梨に特に行きたい場所はなく、ならば人目がないところにしたいと和仁が申し出ると、神泉苑の方面は大内裏周辺の人間が集まりやすいので、紫姫の館から南の方角、東寺か隋心院に散歩がてら向かおうということになった。
 道は一面、薄く積もった雪に覆われていた。人の足跡はほとんどない。これから風が強くなる気配のあるせいだろうか、人の行き来は極端に少ないように思われた。人目を気にする和仁のために、花梨はあえて今日の天候を狙ったのかもしれない。
 しかし、寒い。時朝に言われて衣を何重にもしたが、骨の髄に刺さるような冷気で身体が震えてくる。隣を歩く花梨の息も白く、己の身より彼女の体調の方が気になった。

「神子、大丈夫か」

 え?と花梨は不思議そうに和仁を見上げた。

「大丈夫ですよ。今朝、紫姫の館から和仁さんの邸まで歩いてきたんですから」

 雪の日は嫌いではないと言う。さくさくと鳴る雪の音が心地よいということらしい。

「和仁さんは、雪は嫌い?」
「雪? 好きだとか嫌いだとか、そう思う対象ではないな。寒さは身体に堪えるから好きではないが」

 幸い、積雪はくるぶしに届かない高さで済んでいるので、足元が濡れて凍えるということはなかったが、あまり遅くなると吹雪になる危険もあるので、花梨が満足するまで歩んだら、なるべく早めに切り上げた方がいいだろう。しばらく他愛ない話をしながら道を進んでいると、ふと見知った姿が現れて、和仁は硬直した。
 なぜこのようなところにいるのだろう、しかも雪の日に、大内裏から離れた場所で。まさか仕組まれたのではなかろうかという考えが浮かんで花梨を見やると、彼女もまた驚いた様子で向こうにいる人物に視線を注いでいた。
 仕組まれたなどと考えた自分に罪悪感を抱き、和仁は嫌悪を覚えてうなだれた。出くわした相手の顔を直視できないせいもあった。

「泉水さん。こんなところで、どうしたんですか」

 花梨も、和仁が因縁深い泉水に遭遇してしまったときの心境を分からないではないのだろう。強張った声が、彼女の懸念を示していた。

「み、宮と、神子。ごきげんよう……」

 彼もまた、このような場所で二人に会うとは思っていなかったようだ。明らかに気まずそうな声で、無理矢理に笑顔を作って挨拶をしている様子だった。
 泉水はゆっくりとこちらに近づいて、花梨の前で立ち止まった。和仁は自分の足元を見つめたまま微動だにしなかった。

「お久しゅうございます。わたくしは、用あって東寺に」
「そうなんですか。雪道ですけど、大丈夫でしたか」
「ええ。このような日は車も走れませんので、徒歩で。もうすぐ雪が強くなる気配がいたします。お二人はどちらへ……」

 話しながら、和仁を気にしている空気が伝わってくる。それでも顔を上げることができなかった。自分と彼の立場を考えてしまうと、己のみじめさと、いたたまれない思いでいっぱいになった。早くこの場から去ってしまいたいが、逃げ出すことを花梨は望まないだろう。

「あ、あの……宮」

 しかし、この言葉だけは許せなかった。

「宮と呼ぶな」

 背中がざわつき、和仁は唸った。言ってから、しまったと思った。これではまるで威嚇だ。泉水は悪くない。今までの癖で呼びかけてしまっただけだ。"本当は宮でなかったものを宮と呼んでいたのだから"当然なのだ。
 ああ、帰りたい。
 目の前が、黒い霧で覆われていくようだった。心が歪んでしまう。忘れたと思っていた卑屈な考えで頭の中が満たされていく。
 泉水は動揺したらしく、申し訳ございません……とうろたえた声で詫びた。

「あの……で、ですが、なんとお呼びすれば……」
「……」

 重苦しい沈黙が落ちる。こういう可能性があるから嫌だったのに、どうして外出などしてしまったのだろう。花梨を非難するつもりは毛頭ないが、今起きていることは、無知な彼女には分からない世界のことなのだ。出生、位、権威――そういうものが渦巻く深い泥沼に、自分や泉水は生まれ、生きている。その場所から真に逃げ出すことは、高貴な身分に生まれてしまった以上、死んでもできないのだ。
 一体どんな顔をして泉水と接すればいいというのだろう。これまで散々けなし、傷つけ、貶めていた相手に対し、どんな懺悔をすれば赦されるというのだろう。自分が相手に浴びせていた非難こそが、己自身に向けられていることに気付かずにいた罪を、どう贖っていけばいいのだろう。

「名前で呼んではいけないの?」

 無邪気な花梨の声が聞こえてきて、和仁は険しく眉を寄せ、目を閉じた。

「まさか……名でお呼びするなど、不吉では」
「そうなの?」
「真の名を忌み名といいます。害をなすものに憑りつかれぬよう、我々は忌み名での呼称を避けるために通称名を持つのです」
「私、和仁さんのことを名前でいつも呼んでいますけど、何かに取り憑かれることなんてありませんでした」

 彼女の放つ言葉に、なぜか、棘が含まれているような気がした。

「そ、それは、きっと神子が神聖なお方だからでしょう……」

 そのとき花梨の声の調子が変わった。

「私は普通の人間です」

 和仁はハッとして瞼を上げ、花梨を見た。泉水を見上げる彼女の横顔に、いつもたたえている優しい微笑みはなかった。
 ああ、これだ――これなのだ。以前、和仁が花梨に「八葉の中で、神子の頼りになる者はいないのか」と尋ねたとき、彼女が口を閉ざし、考え込む様子を見せた理由は。

「私の世界には、名前で呼んではいけない決まりはないの。だから和仁さんを名前で呼んでいるだけなんです」

 泉水は花梨の態度に戸惑ったらしく、申し訳ないと再三謝った。和仁は、八葉に向けられる花梨の無表情と静かな怒りが少し恐ろしくなって、神子、と袂を引っ張った。

「気にするな。これは我々の問題だ。お前が心を痛める必要はない」
「和仁さん……」

 花梨は気がついたように胸に手を当て、悲痛な表情になった。

「ご、ごめんなさい、和仁さん、泉水さん。私、本当は口出しするつもりは……」
「い、いえ、よいのです。み……和仁殿がおっしゃるように、これは我々の間にあるしきたりの話ですから」

 だから気にすることはないと、屈み込みながら泉水はうつむく花梨に微笑みかけた。それは和仁が見ても慈悲深く、本当に優しい微笑みだった。こんな顔ができる人間を今まで自分は何度もけなしていたのだ。なんという罪深さだろうか。
 申し訳ない――悔恨に満たされ、傷つけてきた相手に対し何か言える言葉はないだろうかと必死に頭で探しているうちに、喉の奥から咳が出てきた。二人がぱっとこちらに振り返る。不安そうに「大丈夫ですか」と尋ねられ、問題ないと応えたが、咳はだんだん強まり、和仁は手で口を覆いながら背中を丸めた。

「か、和仁さん!?」
「宮! あ、いえ、和仁殿……。神子、これは喘息の発作です」

 よろめく身体を泉水が支えてくれる。その間にも激しい咳が続き、息がまともにできない苦しさで、目から涙が溢れ出した。

「神子、和仁殿の邸に参りましょう。帯を解き、身体を楽にしなければなりません。神子は先に時朝殿のもとへ行き、必要なものを用意してもらってください」

 分かりましたと頷き、花梨は元来た道を走り出した。泉水は繰り返し声をかけながら、失礼しますといって和仁をその背中に背負った。彼は決して大柄な方ではないし、和仁と体格もほとんど変わらないので、かなりの負担になるだろう。降ろしてくれと幾度も頼んだが、泉水は聞かなかった。大丈夫ですからと、激しい咳をする和仁を背負って降雪の道をゆっくりと歩んでいった。一歩一歩、二人分の体重で、大地を踏みしめるようにして。